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荘川桜コラム

荘川桜のあった村について

この地区は、下流の白川村と合わせ白川郷と呼ばれ、じつに豊かな農村でした。標高約700メートル、しかも寒冷地でありながら、稲作の研究と村人の努力により、平野部にも劣らぬ米の収穫率を誇っていました。
また田植が終わった夏場の農閑期には、山菜や牧草がふんだんに収穫できました。さらに積雪が固まる冬場には、山から木材を伐り出すことで、村は大いに潤いました。
世界遺産の白川郷などで見られる合掌造りの民家も多かったのです。

ところが昭和27年(1952年)、政府によりこの地にダムが建設されることが公表されました。
白川村の一部と荘川村、中野地区の他5つの集落が水没予定地になりました。240もの家々が、新たに造られるダムの底に沈むことになったのです。
もちろん、村人は大反対しました。174世帯が郷土を失うまいと、 "御母衣(みぼろ)ダム絶対反対期成同盟死守会"を結成。反対運動がくりひろげられました。

昭和33年春、湖底に沈む以前の荘川村遠景。稲田や合掌造りの民家が見られる。

昭和33年春、湖底に沈む以前の荘川村遠景。稲田や合掌造りの民家が見られる

村の各所でダム反対の幕や看板がかけられた。村人は故郷を失うまいと必死でした。

村の各所でダム反対の幕や看板がかけられた。村人は故郷を失うまいと必死でした

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