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荘川桜コラム:御母衣ダム建設に伴う、集落水没への経緯について < 荘川桜トップ

荘川桜コラム

御母衣ダム建設に伴う、集落水没への経緯について

第2次世界大戦後の経済復興に、水力による電力開発は急務でした。電力の需要が伸びる一方、石炭などの燃料不足から、供給が追いつかない電力不足が慢性化していたのです。
工場などの業務停止や、一般家庭での停電も珍しいことではありませんでした。電力不足は深刻で、“空前の電力危機”といわれました。
そして昭和27年(1952年)、電源開発促進法が制定され、電源開発株式会社が設立されたのです。 その初代総裁が髙碕達之助(たかさきたつのすけ)でした。

積雪量や降雨量の多さで、貴重な国産資源である、豊富な水量に恵まれた岐阜県庄川(しょうかわ)上流部は、水力発電に最適の開発地点でした。さらに、年間を通じた流量調整を行い、下流のダムの利用水量を増加させることができる大貯水池建設を可能にする唯一の地点が、荘川村中野地区でした。

国家発展のためとはいえ、1,200人もの住民にふるさとを去る決断をしてもらうことは、電源開発総裁の髙碕達之助にとっても苦渋の選択でした。
昭和34年(1959年)11月、7年にも及ぶ話し合いの末、ついに住民との合意に達しました。
そして東洋一といわれたロックフィルダム"御母衣ダム"が建設され、白川村の一部と荘川村の1/3が湖底に沈むことになったのです。

復興期の日本にあって就任した、電源開発(J-POWER)初代総裁・高碕達之助

復興期の日本にあって就任した、電源開発(J-POWER)初代総裁・高碕達之助

工事の進む中野地区遠景

工事の進む中野地区遠景

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