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荘川桜物語

四百五十余年を生きる、日本の老桜ものがたり 荘川桜物語
高碕の詠は「荘川桜」と名付けられた桜の横で石碑となった。

高碕の詠は「荘川桜」と名付けられた桜の横で石碑となった。

嫩芽とは、「わかい芽」という意味である。
遅い春が訪れ、待ちに待ったそれが出た。
そして昭和37年(1962年)、水没記念碑が完成し、その除幕式に、桜の移植の指揮を執った笹部と、その発起人である高碕達之助が招かれた。

式には、他の土地へ移住した約500人もの村人が、大型観光バスに分乗してかけつけていた。

村人は、老若分かたず、すべてが水没した水面を見つめて泣いた。そして、わずかに生き残った2本の老桜にすがりつくように集った。高碕が挨拶を始めた。

「昭和二十七年十月十八日基本計画の発表をみたときから、皆さんの幸福をひたすらねがいながら交渉をすすめた。国づくりという大きな仕事の前に父祖伝来の故郷を捨てた方々の犠牲は今、立派に生かされています」

挨拶の途中で、高碕は涙をこらえきれず、泣いた。そんな高碕を見て、笹部も泣いた。笹部の回想。

「温情をこめて語る一語一語は、日ソ漁業交渉の立役者として、今、全世界の脚光を浴びている世紀の人とは思えない。それは、謙譲と誠実にあふれる一個の好々爺のようであった」

川風は冷たかったが、村人たちは、いつまでも桜の下の輪を解こうとはしなかった。
そして高碕が、裸になった桜を見上げながら、詠んだ。

ふるさとは 湖底(みなそこ)となりつ 移し来し
この老桜 咲けとこしへに

それから3年経った昭和39年(1964年)、高碕から笹部のもとへ、手紙が届いた。あの桜の愛称を取り決めておきたいとの旨がしたためられていた。それが、高碕の絶筆であった。昭和53年(1978年)には、笹部も天寿をまっとうした。2人はこの世にはない。

しかし、「荘川桜」と名付けられた2本の老桜は、いまもなお、ダムの水面(みなも)をのぞみながら、新たな枝葉を天へとひろげている。(了)

碑文は初代総裁・高碕達之助作、第四代総裁・藤井崇治書。尚、「みなそこ」は高碕の詠んだ原文では「湖底」であるが、藤井の書では「水底」となっている。
※文中の敬称は省略させていただきました。
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